天ケ城公園/天ケ城桜まつり標高120mの天ケ城公園は、宮崎市高岡町の市街地を眼下に、西に霧島連山、東に日向灘・宮崎市街地が望めます。このような地の利を利用して昔は島津氏の出城(山城)があり、伊東氏と島津氏の戦いの場となったところです。(天ケ城の歴史は中程にあります)3月下旬から4月上旬には約1300本の”ソメイヨシノ”が見頃を迎え”天ケ城桜まつり”が開催されます。(天ケ城桜まつりと桜の写真は一番下の方にあります) 天ケ城公園には、桜の他50000本の真っ赤なツツジや、広い芝生広場、野球場・体育館・天ケ城歴史民俗資料館・ローラースライダー・パターゴルフ場・天ケ城茶屋等の施設が整備されています。 天ケ城茶屋にはおみやげも販売しており、茶屋内レストランでは昔なつかし”けじゃくしだんご汁定食”などお食事も楽しめます。 天ケ城公園は、宮崎市より国道10号線を北西(霧島・小林方面)へ車で約30分。 日向高岡駅より徒歩で20分。
天ケ城と高岡の歴史天ケ城は高岡の歴史そのものです。看板には次のように紹介されています。『慶長5年(1600年)第17代島津義弘は、関ヶ原の合戦に敗れ、日向細島を経て帰国途中、八代(現国富町)に宿泊しました。 「関ヶ原天下分け目の合戦」と全国が見守ったこの合戦で、徳川家康の勝利が全国に知れ渡ると、島津氏と長年戦ってきた伊東家の重臣、清武城主、稲津掃部介は、「島津氏を滅ぼして伊東氏の旧領を取り戻すのは、この時期以外にない。」と考えます。稲津は、即座に兵を率いて、宮崎を平定北進し、佐土原城下に迫り、その一部は、義弘が宿泊している八代に向かって進軍しました。 それに対して、島津領内の近傍の領主達は、取るものも取りあえず、八代へ兵を進め、ようやくこの島津の兵をくい止めると、義弘は、兵数十名を引き連れて八代を脱出し、かろうじて鹿児島にたどり着くことが出来ました。 義弘はこの事件を経験して、国境警備の必要性を痛感し、伊東氏に備えるため、久津良名(現高岡中央部)の一部を城地に取り立て、城を「天ケ城」と命名し、島津氏と関係の深かった地域から武士多数を強制移住させました。そして、比志島紀伊守国貞を初代地頭に任命し、「高岡」を前線の要としました。これが、高岡郷の創設とされています。 その後、元和元年(1615年)に一国一城令が布かれると、天ケ城は廃城となり、城にいた武士達は、全員城を引き払い、麓(現高岡市街地)に下り住みました。 天ケ城は、山の自然の地形を上手に利用した山城であったと言われています。』 天ケ城桜まつり毎年3月下旬から4月上旬に「天ケ城桜まつり」が開かれ宮崎市内外の花見客で賑わいます。天ケ城桜まつり期間中、夜はライトアップされ夜桜見物、焼き鳥・たこ焼き・綿アメなど沢山の出店が出て昼も夜も大変賑わいます。ここ天ケ城公園では何処でも焼き肉が出来ることが特徴、焼き肉セットなどもレンタルされています。 1300本のソメイヨシノ桜は殆ど40年以上前に植えられ、桜の木が成木となる今が見頃、お城の斜面が桜の花で埋まります。ソメイヨシノの他山桜も配置されています。 本丸跡に復元された天ケ城の周囲に、広い芝生の広場とその周りの5000本のツツジ、桜まつりの終わり頃から鮮やかな真っ赤な花を咲かせます。 桜の写真 2002.3.24から2005年撮影 7分咲き程度 天ケ城本丸から展望広場方向のパノラマ(クリックすると大画像で表示します) お問い合わせ 宮崎市天ケ城歴史民俗資料館 TEL0985−82−2927 宮崎市高岡高岡特別区 企画総務課商工観光係 〒880-2292 宮崎市高岡町内山2887番地 TEL.0985-82-1111 FAX.0985-82-3779 宮崎市高岡特別区ホームページへ 周辺の観光地:月知梅 綾城 馬事公苑 法華岳公園 照葉大吊橋 周辺の温泉:高岡温泉 周辺の宿泊施設:宮崎市 綾町で探す 戻 る 宮崎の観光TOPへ |